意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説
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Published 2010-01-12
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科における講義「システム生命論」の一部です。この講義では、「意識(クオリア)は幻想か―「私」の謎を解く受動意識仮説」と題して、著書「脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説」で述べた内容を話しています。
年月日:2009年12月18日
氏名:前野隆司
All Comments (21)
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カブト虫は人形を使って八百長試合で何度も勝たせてあげると、すれまでは逃げていた大きな相手にも立ち向かうようになったり実際に度胸がついてそのおかげで強くなる。それはエピソード記憶が行動に反映された結果ではないのでしょうか?
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意識が決めるのではなく、逆に脳が処理した情報の結果が意識なのだと思っています。例えるならPCモニターの画面にうつされている情報が意識と同じかと。
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自由意志が否定されると、近代社会の前提が掘り崩されて色々やばい。
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そうですね。誰かの説にもありますが、逆に実際に指を曲げずにただ指を見つめて「曲がれ」と心で念じても、指は曲がりませんからね。
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そもそも意識と無意識、どちらかがどちらかを包括してないとおかしいという話になってるところまでは納得がいくけど、別に無意識が包括してる必要はないんだよね。 別のものがそれらを統括してるとも仮説としては考えられる。
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とても納得できて実感としても受け入れられます。そうね、了解って感じです。 そうそう、どっちにしても「わたし」の仕業なのだから、特にがっかりすることはないと思う。
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一理ありそうですね。でも、湧き上がる愛情や悲しみや憎しみの感情のメカニズムが知りたい。
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着目、着想は凄く良いと思いますが、観察や証明の方法論が難し過ぎると思います。今のところ仮説の叩き台で、確かめようがなく、仮定、仮説が延々と続きそう。カブトムシ(他の何でもよい、セミとかウミウシとか)に意識が有るか無いか?も想像の域を出ないでしょう
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素晴らしい講義をありがとうございました。 早速仲間にシェアさせていただきました。 これから、積極的に多くの方に広めさせていただきたいと存じます。
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21:19前後の色の実験には少し疑問があります。 人の目のシャッター速度は対象を見ている時の集中度合いによって変化すると 思われます。 例えば交通事故に遭遇したような場合にはミリ秒単位のシャッターが切られ、 まるで時間が遅く経過したような精細な視覚記憶が残ると言われています。 高度な意識の集中下で実験したならば、0.2秒程度の変化は充分記憶可能なのでは ないでしょうか。
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すごく納得!! しかし、"能動的"という言葉はいったい何に使えばよいのか?
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なぜ時計が1秒以上止まっているかのように感じるのか、やっとわかった。Very intriguing !
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マイケル・ガッザニガの「分離脳患者の認知実験」を聞いたのですが、 行動したことにツジツマを合わせて意味を考えられるなら、 なぜ、生きているということにツジツマをあわせられないのでしょうか。 「受動意識仮説」が正しいとしたら、生きることに疑問を持たずに 生きることを正当化するような意味を考えてしまう気がします。
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早押しゲームでは0.3秒で押すことができます。測定器は0.3秒を示し、自分の感覚も 正に0.3秒と知覚できます。どうして0秒で押したと知覚しないのでしょうか? 受動意識仮説ではそれも可能なはず、同時とズレの正確さを振り分けるとすれば、 その振り分けに用いる根拠とは何なのでしょうか?
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>さくら侍 そうだろ、やっぱりな、ウチのカブトムシは目が合うと照れるぞ!w
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意識は社史編纂者だとしたら、なぜ、自分で選択して行動できるのか?という疑問が起こりますが、 おそらく、意識が主体的に考えをおこすことはないにしても、 小人から上がってきた考えを採用するか、採用しないかを選択する決裁権は持っているということになるのでしょう。 拒否権を持った編纂者でしょうか。
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自分が感じている「自分、俺、私 ..」という感覚と、誰か他の人が感じている「自分、俺、私 ..」とは違うのか?または同じことなのか?もよくわかりません。 鏡に映る自分に向かって「お前は誰なんだ?」と問い続けると、やがて自分は何処、其処の誰というID感を失い、自分が誰だか?わからなくなり、自我(自意識?)崩壊に至り、気が狂うそうだ。自分に与えられた物語(名前、家族、祖先、周辺環境、経緯、歴史等)が「自分という意識」の形成に重要かも知れない。
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スポットライト説だと、意識は並列処理するこびとたちを意識できることになるが、多数決の結果は1つなので、それを連続記憶したものが意識だとすれば、こびとたちを意識できないことを理解でき、単純で分かりやすい。お釈迦様の考えと結びつけたのも納得。脳神経回路は無意識層に意識で作れるので、意識は無意味といういみではない。体育系、芸術系のプロは、無意識で行動している。しかし、そこに到達する努力は意識的に行っている。科学系も同じだろう。
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小人たちに主体性はないのでは?脳細胞なので、「能動」「主体」という言葉を使いたくなるが、脳細胞も、例えば心臓の神経細胞等と同じで生命維持のために自動的に 働いているだけの事だと思われます。ただ単純に、カブトムシ達と同じように神経ネットワークに電気が走って行動しているだけというイメージです。 脳細胞は生命維持や種の保存等の目的により、設計された通りに動いているだけで、主体性というのはまさに幻想でしょうね。
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小人さんたちの雑談結果が人格や継続した活動として安定するのは不思議です。 ただ反応して雑談して決めるなら毎回不安定な雑談結果になりそうなものに思えます。 意識には小人さんたちを統制する能力があるか、小人さんたちの雑談方法にルールがあるか記憶や経験から雑談方法の統制が決まるのか、ほかにあるのでしょうか? 日々継続したり一貫した活動を行うには小人さんたちがエピソード記憶に従うことが必要に思えます、社史編纂の結果を小人さんたちが使うループがあると考えると自然に思えます。